基礎学力を考える 企業トップインタビュー
旭硝子株式会社
代表取締役 取締役会議長兼会長執行役員CEO 門松 正宏 氏
1942年生まれ。1965年慶應義塾大学商学部卒業後、同年旭硝子株式会社に入社。管球硝子事業本部営業部長、取締役管球硝子事業本部営業部長兼電子事業本部ファイン硝子事業部長、常務取締役ディスプレイ事業本部長、副社長執行役員ディスプレイカンパニープレジデント、代表取締役兼社長執行役員CEOを経て、2008年より現職。
1.グローバル時代にこそ強く求められる「基礎学力」
当社グループは世界おおよそ30カ国で事業を展開し、全世界の従業員数を合わせると約5万人になりますが、その内の日本人は1万4000人程度に過ぎません。文字通りのグローバル企業です。当社グループは、2002年にグループビジョン"Look Beyond"を制定、私たちのミッションを実現するために、グループ従業員が共有し、最も重視する価値観として、次の4つを掲げています。
1.イノベーション&オペレーショナル・エクセレンス(革新と卓越)
常に革新的な技術、製品、サービス、ビジネスのあり方、人材活用を追求します。また、あらゆる活動において最高の効率と品質を目指して不断の改善を行い、常に、実現し得る最高の仕事をします。(「易きになじまず難きにつく」)
2.ダイバーシティ(多様性)
多様な文化、能力、個性を持った個々人を尊重し、国籍、性別、経歴にこだわらないグローバル経営を展開します。
3.エンバイロンメント(環境)
自然との調和を目指し、善き地球市民として、持続可能な社会に貢献する責任を担います。
4.インテグリティ(誠実)
高い倫理観に基づき、あらゆる関係者と透明・公正な関係を築きます。
経営トップ自らが全世界の拠点を巡回し説明を行うなど、約5万人の従業員にこれらの価値観を浸透させることに日々努めているわけですが、容易なことではありません。
これらの価値観を理解し体現するためには、「基礎学力」は決して欠かすことはできないと考えています。
1.の「革新」を追求する人材には、何を、何故なすべきなのかを問う大局観と、それを具体的な実行に落とし込んでいく論理力、さらにそれを他者に伝えて実現に繋げていくためのコミュニケーション(対話)力が求められます。また、「卓越」した仕事を行うためにも、あらゆる活動において事実を観察し、それを言語化して他者と協議し、解決策を練るプロセスが必要です。
2.の「多様性」を尊重するという場面においても、世界の様々な文化や歴史、価値観等を理解できるだけの基礎的な教養が必要です。逆に、自分(自分達)の考え方・感じ方のみが正しいと考えている人には、多様性を尊重することなどできるはずもありません。また、お互いに多様性を受容し合うには、自分の考えを論理的に整理し、適切な語彙や文脈で伝えると同時に、相手の考えを構造的に捉えて理解することが大切です。
3.の「環境」負荷の軽減を考える場合も、地球規模の大きな視点で思考できるだけの、化学や生物学などの自然科学に関する知識がなければ、ただの綺麗事にしか聞こえないでしょう。
4.の「誠実」の中には、いわゆるコンプライアンス(法令順守)やガバナンス(企業統治)の概念も含まれます。これらに関しても、歴史や経済に関する知識、あるいは倫理観などがなければ、どうして社会規範や法律を守らなければいけないのかを理解することができません。
いずれにせよ、読み書き、計算といった「基礎学力」をベースとして、歴史や化学、経済などの知識・教養、及び論理力や倫理観などを培った経験がそのベースに積み上がっていくことにより、これらの価値観を理解し体現することが可能となるのです。「基礎学力」の習得は基本中の基本であり、それがなければ知識・教養や経験の広がりを持たせることはできません。
当社のような製造メーカーは、自らの技術力を活かし、様々な製品を製造・販売することにより、人々の生活を豊かに、そして快適にすることで、その対価を頂いています。ですから、そこで働く従業員には、社会に貢献していくという使命感が必要です。「会社が自分に何をしてくれるか」ではなく、「自分は会社を通じて社会に何をしてあげられるか」を考えるのが本来です。ところが最近では、「与えられた環境や体制の中でどうやって仕事をこなしていくか」ばかりを考えている人が多いように感じます。そもそも「自分はどうありたいか」「会社・社会はどうあるべきか」といった思考が欠落しているのです。そして、「あるべき像」の実現のためには、規制の枠組みを破壊し、新たな枠組みを創造するといった思考と行動も必要です。この思考と行動こそ、まさに「基礎学力」をベースとした4つの価値観の理解と体現に他なりません。
このように、地球規模での経済活動を行うグローバル企業が、その企業価値を体現することにおいて、従業員が「基礎学力」を備えていることは非常に重要なことなのです。
2.当社でも感じている「基礎学力」の低下
当社の課題のひとつとして、「良い仕事をしたら褒めて伸ばす」という企業風土づくりに力を入れています。今まではどちらかと言うと、部下を叱る上司は居ても部下を褒める上司というのは非常に少なく、従業員のモチベーション向上や人材育成の大きな妨げになっていると感じたからです。そこで、様々な取り組みを褒める制度を作りました。その一つに現場のプロジェクト活動を会社が表彰する制度があり、最近、「製造現場のリーダーの基礎教育訓練プログラム」を優れた取り組みとして表彰したのですが、その中味は「分数の掛け算を教える」「挨拶や感謝の表現を教える」「簡単な文章を読ませる、書かせる」「ビジネス文書を読ませる、書かせる」といったものでした。
取り組み自体は非常に優れていたのですが、私が驚いたのはその教える内容です。企業研修であるにもかかわらず、分数や挨拶から始めなければいけないという事実に、「基礎学力」に対する危機を感じたのです。当社は、一定以上の優秀な人材を厳選して採用していると自負しています。にもかかわらず、このような研修を行う必要があるとすれば、「基礎学力」の低下は当社だけの問題ではなく、日本全体の社会問題であると思います。
3.「お客様満足度(CS)」「従業員の働きがいと誇り(ES)」「社会貢献」「企業発展」は全て繋がっている ~ 「コミュニケーション(対話)力」を支える「基礎学力」
従業員が日々嬉々として働き、良い仕事をしながら成長していれば、お客様満足度も上がり、企業も業績を伸ばして発展するでしょうし、会社の発展は基本的に社会貢献にも繋がります。それでは、この「お客様満足度(Customer Satisfaction、以下CS)」「従業員の働きがいと誇り(Employee Satisfaction、以下ES)」「社会貢献」「企業発展」を一貫して支えている鍵となる要素は何でしょうか。それは「コミュニケーション(対話)力」に他なりません。
当社では、世界4万人の従業員に対してES調査を行っています。33の国・地域で18言語の調査票を作成し、それ相応のコストをかけて臨んでいます。その結果を分析すると、従業員の不満では「上司の方針が良く分からない」「上司からの評価に納得がいかない」「部下の報告が要領を得ない」など、コミュニケーション(対話)に関する事柄が多く見受けられました。従業員同士のコミュニケーションがいかにESに影響するかが窺い知れます。一方でCSも、お客様の真のニーズを理解し解決するためには、コミュニケーション能力が欠かせません。社会貢献においても、社会とのコミュニケーションの取り方次第で理解のされ方が異なってきます。そして、コミュニケーションに要する時間は、事業運営のスピードにも大きな影響を与えます。
この「コミュニケーション(対話)力」の土台となるのも、「1.漢字活用力などの言語リテラシー」「2.多様性を受容できるだけの基礎教養」「3.自己(自組織)を客観的に捉える自己客観視力」などの「基礎学力」だと言えるでしょう。もっと簡単に言えば、「相手の話の内容を理解する力」と「自分の考えを適確に表現する力」がなくては実のあるコミュニケーションは成り立ちません。その「力」を養うためにも「基礎学力」は不可欠だと思います。これらの「基礎学力」を身につける方法について、私見を述べたいと思います。
「1.漢字活用力などの言語リテラシー」を伸ばすためには、やはり手で書く反復訓練が最も有効だと思います。私が子供だった時は、漢字ドリルや絵日記、読書感想文など、かなりの量の宿題が出ていたと記憶していますが、私の孫を見ていると、だいぶ減っているように思います。反復訓練は、ある程度の量をこなさなくては身につかないはずです。IT化が進み、手書きしなくとも困ることのない世の中になりましたが、苦労して文脈や構文を考え、語彙や漢字を丁寧に選び取りながら手で書くという訓練を怠ると、漢字活用力や言語リテラシーは伸びないどころか、むしろ退化してしまうでしょう。日本語は、表意文字である漢字と表音文字であるひらがな・カタカナ、さらにアラビア数字と漢数字など、非常に複雑で高度な言語体系を持っています。習得難易度も高い一方で、感情や思いを最も豊かに繊細に表現できる言語であると思います。日本人の高い思考力の源泉、そして感受性や情緒力の源泉も、この高度な言語にあると考えます。
「2.多様性を受容できるだけの基礎教養」と「3.自己(自組織)を客観的に捉える自己客観視力」を同時に伸ばすには、人と接して遊んだり学んだりする経験をいかに数多く持つかです。ひとり遊びや気心の知れた仲間と遊んでいるだけでは、多様な価値観に触れることはできません。また、いわゆるライバルと呼ばれる相手と競い合い、優勝劣敗が決する場面などに接しなければ、「自己客観視」をする機会にも恵まれないことになります。このように人と接する場合、薫陶を受けられるような一流の人物と出会えれば言うことはないのですが、残念ながら全ての人にそういった機会が恵まれるわけではないでしょう。ですが、悲観することはありません。この生身の人間との接触の不足を補い、時空を超えて多くの一流の人物と接することができる機会、それが読書です。多くの書物に触れ、大いに薫陶を受けて欲しいと思います。
4.「基礎学力」は生涯求められる能力
「基礎学力」が社会の入り口で求められることはもちろんのこと、その重要性は寧ろキャリアを積んでいくほど増してくると考えます。先述した「コミュニケーション(対話)力」やその土台となる「基礎学力」が不足した人物が中間管理職に就くと、経営層にとっても現場従業員にとっても非常に困った事態が起こります。経営方針を噛み砕いて現場に浸透させることも出来なければ、部下達が掴んだ現場やお客様、市場の貴重な情報を経営層に上申したり企画を提案したりすることも出来ないからです。このような中間管理職は、時に「粘土層」などと揶揄されることもあります。そういった人材が、その後も企業内で重要な仕事を任されることはないでしょう。
生涯役立つ「基礎学力」、なければ困る「基礎学力」を、全ての子供達や若者がきちんと身につけて欲しいと思います。
※掲載内容(所属団体、役職名等)は取材時のものです。