「常用漢字表の改定で国語教育はどう変わる?」講演録
当協会では、平成22年11月21日(日)に高知県で教員・保護者向けセミナーを開催しました。東京都教育委員の高坂節三氏による講演内容をご紹介します。
教育委員から見た現状と今後の課題
漢字が直面した3度の「危機」
日本の歴史上、漢字は3度の「危機」に直面しています。最初の危機は、5〜6世紀に中国からもたらされた時で、仏教と同じく、それを受け入れるか否かが当時の天皇や豪族によって話し合われました。結果、漢字を受け入れることにした日本は、その後「訓読み」を生み出し、さらには「平仮名」や「片仮名」を生み出すことで、独自の文化をつくり上げていきました。
2度目の危機は、明治維新の時です。西洋の文化や言語が流入してくる過程で、後の文部大臣・森有礼が「日本語を廃止して英語を公用語にすべき」と言いました。かの福沢諭吉も「漢字を減らすべきではないか」と言い、さらには西周のように「表記にローマ字を用いるべき」と言う者も出ました。明治6年にはこの3人を含めた当時の知識人たちが集まり「明六社」を結成し、多くの議論が展開される中で、漢字の扱いについても話し合われました。その中で、会のメンバーの1人であった西村茂樹が「大切なのは文章そのものの中身であり、文章は『品格』を持たねばならない」と主張し、漢字は排除されずに済みました。今、振り返ると、西村茂樹は非常に先見の明があったと思います。彼の思想は、夏目漱石や森鴎外など、明治から大正にかけての文豪にも強い影響を与えました。
3度目の危機は、第二次世界大戦の直後です。日本が戦争に敗れたのは、仮名交じりの漢字という複雑な言語を使っているからだとして、「復興と経済成長のためには、漢字を廃止すべきではないか」との議論がなされました。そんな中、GHQが日本語の定着を試験によって調査し、その結果が予想以上に良かったことから、漢字はそのまま継続されることになりました。そして、1946年には「当面使用する漢字」として、1850字の「当用漢字」が制定されたのです。
その後、漢字が国民に定着していったことから、1981年に「当用漢字」は1945字の「常用漢字」となりましたが、それまでは少なからず、漢字の廃止やローマ字化の動きもありました。文豪・志賀直哉ですら、「言語として1番美しいフランス語を公用語にすべき」と主張していたほどです。
このように3度の危機を乗り切って、漢字は現在に受け継がれています。私は大学を卒業後、1959年に伊藤忠商事に入社しましたが、その当時はタイプライターが普及し始めていたことから、社内の書類は片仮名で作るよう指示されていました。つい数十年前までは、そんな時代だったわけです。
しかし、漢字が使われない文章がどれだけ読みにくいかというと、図1・2をご覧いただければ一目瞭然です。図1は平仮名のみの文、図2は漢字仮名交じり文で、内容は同じです。一見して、漢字仮名交じり文の方が読みやすく、すらすらと頭に入ってくることが分かります。
先日発行した『漢検ジャーナル』のインタビュー中で、養老孟司先生が言っておられましたが、ロシア語から日本語に訳すより、日本語からロシア語に訳す方が7〜8倍も早いそうです。つまり、きちんとマスターさえすれば、漢字仮名交じり文は非常に優れた情報伝達効率を誇っているのです。

図1 図2
「生きる力」をはぐくむ上での5つの課題
今回の常用漢字改定の基となったのは、平成16年に文化審議会が示した「これからの時代に求められる国語力について」という答申です。答申では、国語は「知的活動」の基板となるだけでなく、「感性」や「情緒」をも形成し、さらには日本人として求められる「倫理観」や「誠実さ」「礼節」「愛」いったものを生み出すわけで、その意味でもしっかりと根付かせていく必要があることを記しています。今回の学習指導要領改訂の元となった中央教育審議会の答申は、この文化審議会の答申がベースになっています。
この中央教育審議会答申の中に「『知識基盤社会』の時代などと言われる社会の構造的な変化の中で、『生きる力』をはぐくむという理念はますます重要になっている」という一文があります。「生きる力をはぐくむ」という目的については、「ゆとり教育」も変わりません。しかし、この理念を実現するための「手だて」が、十分とはいえませんでした。現状を分析すると、五つの課題が挙げられると思います。
1つ目は、「生きる力」の意味や必要性について、文部科学省による趣旨の周知・徹底が必ずしも十分ではなく、共通理解がなされていなかった点。2つ目は、子どもの自主性を尊重するあまり、教師が指導を躊躇する状況があったという点です。戦後、日本の教育は、デューイの一部の社会主義的な思想が持ち込まれ、「子どもは放っておいてもすくすくと育つもの」との考え方が広がりました。しかし、すべてを「自主性」に任せてしまうのは、本当の意味で子どものためにはならないことは、いうまでもありません。
3つ目は、各教科での知識・技能の習得と「総合」での課題解決学習や探究活動が、つながりを欠いた点です。「生きる力」をはぐくむ実践として位置付けられた「総合」が、どちらかといえば易きに流れ、結果としてその目的を果たせなかったことが指摘されています。
4つ目は、各教科で「観察・実験」や「レポート」「論述」など、知識・技能を「活用する活動」を行う上で、授業時数が不足していた点です。この点については、後ほど詳しくお話したいと思います。そして5つ目は、豊かな心や健やかな体の育成について、家庭や地域の教育力が低下していることに対し、対応が十分ではなかった点です。今回の新学習指導要領は、こうした課題を踏まえて作られました。
PISAの結果をどう受け止めるか
日本人は、得てして自国の学習到達度を気にし過ぎるきらいがあります。OECDが3年おきに実施している「PISA」という学習到達度調査がありますが、この調査で日本の順位が下がり続けていることが(表1参照)、新聞でもたびたび報道されています。
表1 OECDによる学習到達度調査(PISA)のOECD加盟国内での日本の順位
| 2000年 | 2003年 | 2006年 | |
|---|---|---|---|
| 読解力 | 8位(27ヵ国中) | 12位(29ヵ国中) | 12位(29ヵ国中) |
| 数学的リテラシー | 1位(27ヵ国中) | 4位(29ヵ国中) | 6位(30ヵ国中) |
| 科学的リテラシー | 2位(27ヵ国中) | 2位(29ヵ国中) | 3位(30ヵ国中) |
この結果をどう受け止めるかは、さまざまな見解があると思います。先月お会いしたデンマークの大使は「PISAの成績が悪いからといって、慌てる必要はない。デンマークはデンマークで、これまで通り『リベラルアーツ』を重視した教育を展開していく」と述べておられました。また、PISAで1位にあるフィンランドでは、同国のGDPの数割を占めるともいわれるノキアの業績が悪化したことについて、同社の会長が「業績が下がったのは、国の教育が悪いから。日本と同じような教育をしていては、新しいアイデアが生まれない」との見解を示しています。
日本では、PISAの結果が下がった途端、1位のフィンランドを視察するなどの動きが活発化しています。もちろん、視察すること自体は否定しませんが、教育には歴史と伝統に培われたものであり、私たちにとって何が最も良いかを冷静に考えていく必要があります。
アメリカでは、オバマ大統領が就任演説で不登校問題に触れ、「不登校は本人の損失のみならず国家の損失である」との見解を示しました。そのアプローチは2つあり、1つは「チャータースクール」、もう1つが「パブリックスクール」です。「チャータースクール」が短期の結果を求め、数学と英語と理科、すなわちPISAの求める学力さえ上がればよいとしているのに対し、「パブリックスクール」は、日本の学習指導要領を手本として、幅広い学力を着実に習得させることを目指しています。
すなわち、一方で批判され、一方で称賛されているのが、今の日本の教育なのです。他国の教育を参考にはしても、安易にまねる必要はありません。日本において何が大事かをよく考えて、教育のあり方を考えていく必要があると私は思います。
常用漢字表の改定で国語教育はどう変わるか
文化審議会の答申「これからの時代に求められる国語力について」を踏まえ、平成20年1月に中央教育審議会が答申「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善について」を公表いたしました。新学習指導要領は、この答申を踏まえて策定されていますが、その特徴の1つとして、総則の中に「家庭との連携」という言葉が示されたことが挙げられます(資料1参照)。
日本国憲法には、「家庭」という言葉が一切使われていません。憲法の人権条項作成に携わったベアテ・シロタ・ゴードン女史は、「男女同権」と同じく、社会を構成する最小の基盤である「家庭」という言葉を入れたかったそうですが、この言葉の影響力が日本においては強すぎたために、盛り込まれませんでした。しかし今、親の権威が失われつつある中で、もう少し「家庭」のあり方を重視すべきではないかとの声が上がっています。新しい学習指導要領の総則の中に「家庭」という言葉が盛り込まれたのは、こうした流れを汲んでのことです。
資料1 新学習指導要領 総則(教育課程編成の一般方針)
学校の教育活動を進めるに当たっては、各学校において、児童に生きる力をはぐくむことを目指し、創意工夫を生かした特色ある教育活動を展開する中で、基礎的・基本的な知識及び技能を確実に習得させ、これらを活用して課題を解決するために必要な思考力、判断力、表現力その他の能力をはぐくむとともに、主体的に学習に取り組む態度を養い、個性を生かす教育の充実に努めなければならない。その際、児童の発達の段階を考慮して、児童の言語活動を充実するとともに、家庭との連携を図りながら、児童の学習習慣が確立するよう配慮しなければならない。
中央教育審議会の答申では「思考力・判断力・表現力をはぐくむ学習活動の例」として、幾つか具体例が挙げられています(資料2参照)。この元となった文化審議会の答申では、「考える力」「想像する力」など情報を処理・操作する能力を培う一方で、そうした力を支える基盤として国語力や教養、倫理観、感性などをはぐくむことの大切さを指摘しています。
資料2 思考力、判断力、表現力等をはぐくむ学習活動の例(中央教育審議会答申より抜粋)
a 体験から感じ取ったことを表現する
b 事実を正確に理解し伝達する
c 概念・法則・意図などを解釈し、説明したり活用したりする
d 情報を分析・評価し、論述する
e 課題について、構想を立て実践し、評価・改善する
f 互いの考えを伝え合い、自らの考えを発展させる
これまでの教育は、国語力や教養など「基盤」となる部分が欠如し、技術的な部分ばかりに重点が置かれていました。10年前の指導要領改訂では、「数学」や「理科」「社会」の授業時数が減らされる中で、「国語」も同じ比率で削減がなされましたが、これは「国語」がすべての教科の土台になっていることへの認識が欠けていたからにほかなりません。新学習指導要領はそうした反省に立ち、「読み書き」を重視し、古典を読んだり、心に響く曲を歌ったりする機会などを通じて、「感性」や「情緒」をはぐくむことの大切さが、再認識されています。
学習指導要領の改訂のポイントとして、「言語活動の充実」が第1に挙げられています(資料3参照)。そして、国語力はすべての教科の基盤であり、国語だけでなく全教科を通じてはぐくんでいくべきだと指摘しています。また、「伝統文化に関する教育の充実」も掲げられています。具体的には、ことわざや古文、漢文の音読などが、小学校では来年度から、中学校では再来年度から実施される新しいカリキュラムにおいて、増やされることになります。
資料3 小・中学校の学習指導要領の改訂のポイント
a 言語活動の充実(国語をはじめ各教科等で記録、説明、批評、論述、討論などの学習を充実)
b 理数教育の充実
c 伝統や文化に関する教育の充実(ことわざ、古文、漢文の音読など古典に関する学習を充実−国語)
d 道徳教育の充実
e 体験活動の充実
f 外国語教育の充実(小学校5・6年生に聞くこと、話すことを中心に指導、中学校では聞く・話す・読む・書く技能を総合的に充実−語数を900語を1200語程度へ)
常用漢字改定による学校教育への影響
今回の常用漢字改定により、新たに196字が常用漢字に追加されました。これに伴い、小学校で教える漢字の数が増えるということはありません。小学校用の教科書はすでに検定が済み、今年度に採択が行われ、来年度から使用が開始されます。一方で、再来年度から使われる中学校用の教科書では、新しい常用漢字表に基づき、約50字が追加される見通しです。また、小学校においても、振り仮名を付けるなどして、プラスアルファで教えてもよいという方針を文部科学省が示しています。
先日、私がある小学校を訪れた時の話ですが、授業の中で子どもたちがパソコンを使っていました。しかし、インターネットで普通に検索をすると、小学生には読めない漢字がたくさん出てきます。これをどうするのかと聞くと、振り仮名を付けてくれるソフトがあって、それを使うそうです。こうした実態もあって、振り仮名を付けて漢字を読むことが、今回の学習指導要領に盛り込まれたのでしょう。
東京都の世田谷区では、平成16年に「日本語教育特区」が認定され、独自に「日本語」という教科を設け、国語力の育成を図ってきました。教科書も世田谷区がオリジナルで作成し、かなりの成果を上げているようです。また、新潟県の新発田市も平成20年に「日本語教育特区」を認定され、同様の実践に取り組んでいます。
具体的にどんな実践が行われているかというと、例えば小学校1年生の段階から漢詩の音読をさせています。低学年の小さな子どもが、高啓の「尋胡隠君」や論語の一節などを読んでいるのです。「ちょっと難しすぎるのでは」と思う人も多いでしょうが、音の響きが美しいためか、子どもたちは一生懸命取り組んでいるそうです。
私も子どもの頃、百人一首の詩を暗記しましたが、今でも上の句が流れれば、下の句を思い出すことができます。漢文や古文の韻を踏んだ美しい言葉は、独特の味わい深さがあるのでしょう。かの湯川秀樹博士も子どもの頃、わけが分からないまま漢文や古文を素読させられたそうですが、そのことが後に大いに役立ったと自伝で述べています。
戦後、日本では1850字の当用漢字が定められ、それが後に1945字の常用漢字へと発展し、今回の改定で2136字となりました。しかし、子どもたちは一覧表で漢字を覚えていくわけではありません。大阪大学名誉教授の加地伸行氏は、漢字の教え方について、例えば子どもたちを動物園に連れて行って「象」や「鹿」などの漢字を教えるなど、親しみやすい領域から教えていくことの大切さを指摘しています。また、中部大学准教授の深谷圭助氏が提唱する「辞書引き学習法」なども、能率的な漢字学習方法の1つでしょう。こういった教え方も含め、現場の先生方が子どもの実情を踏まえつつ、工夫していけばよいのです。
いずれにせよ、学校の先生にとっては、教える「量」が増える上に、周囲の期待も膨らむわけでプレッシャーは大きいことでしょう。特に、小学校の先生は、1人で全教科を教えなければならないわけで、大変だと思います。
常用漢字は2136字で十分か

写真:講演会の様子
日本語の部首で、1番多く使われているのは「草かんむり」です。2番目が「みず・さんずい」で、3番目が「き・きへん」です。こうして見ても、日本人がいかに自然に親しみを覚えているかが分かります。ちなみに4番目が「くち・くちへん」で、5番目が「て・てへん」、6番目が「こころ・したごころ・りっしんべん」と続きます。自然の次に、「口」や「手」、さらには「心」などが来るあたりは、いかにも日本らしいといえるでしょう(※1)。
学習指導要領は改訂されましたが、各学年の配当漢字数に変更はありません。ただ、取り扱い方は変わります。児童の実態を踏まえつつ、まだ習っていない上の学年の漢字も、振り仮名を付けて教えていくことになったのです。
先般、「口蹄疫」の問題が大きくクローズアップされましたが、この「蹄」の字の表記は、新聞社やテレビ局によって異なります。「口てい疫」と平仮名で表記するところもあれば、「口蹄疫」と漢字で表記するところもあります。さらには、漢字に振り仮名を付けているところもあります。どれが正解というわけではありませんが、こうした熟語が頻繁に使われるようになれば、いずれは常用漢字にされるのでしょう。
李白の詩は、約3500字の漢字が使われています。杜甫は4000字以上です。今、日本で使われている漢字は、3000〜4000字といわれており、いずれはこの程度の数の漢字が、常用漢字になる可能性があるのではないかと、私は考えています。実際、今回の改定でも、市町村名に使われているのに、常用漢字とならなかった字がたくさんあります。住所に書くことは「日常的」であり、その意味では国民が広くマスターしていくべきものと考えることができます。
栃木県にある足利学校は、日本で最も古い歴史のある学校といわれ、多くの優れた人材を輩出してきました。この足利学校でも、小さい頃から「論語」が教えられていました。先ほど、世田谷区で漢詩が教えられているとの話をしましたが、こうして多くの漢字を学ぶことが、その後の人生に大いに役立つのだと思います。
韓国では1948年に「ハングル専用」に関する法律が定められ、公用文を中心に漢字が排除されていきました。しかし、漢字が読めないことで、多くの不自由なことも出てきています。特に歴史を学ぶ上では、漢字で書かれた古文書を読む必要があるので不便です。そのような状況の中、漢字の意義を見直し、勉強しようとする流れも韓国では出てきているようです。
また、中国では1956年に「漢字簡化法案」が公布され、漢字の簡略化が進められました。しかし、そうした簡略化が文化の伝承を妨げるとして、最近では見直し論も出てきているようです。
このように海外においても漢字の対する関心が高まってきています。日本においても、常用漢字表の改定でたいへん注目されています。このような世界の状況の中で、漢字の重要性を日本から伝え広めていくことは、たいへん意義があることと考えています。
以上で発表を終了いたします。ご清聴ありがとうございました。
※ 大修館書店HPより
http://www.taishukan.co.jp/kanji/index.html
講演者プロフィール
高坂 節三 氏 東京都教育委員 日本漢字能力検定協会 専務理事
1936年京都府生まれ。1959年3月京都大学経済学部卒業。同年伊藤忠商事株式会社入社。同社常務取締役、栗田工業株式会社会長などを歴任して現職。主な著書に『昭和の宿命を見つめた眼』(PHP出版)、『教育委員になって知ったこと、考えたこと』(小学館スクウェア)など。
※講演者プロフィールは講演当時のものです。
































