公益財団法人 日本漢字能力検定協会

基礎学力を考える 企業トップインタビュー

キリンホールディングス株式会社

荒蒔 康一郎 氏

取締役会長 荒蒔 康一郎 氏

1939年生まれ。1964年東京大学農学部卒業後、同年キリンビール株式会社入社。医薬事業本部副本部長、取締役医薬事業本部長、専務取締役医薬カンパニー社長、代表取締役社長、代表取締役会長等を経て、2007年キリンホールディングス株式会社代表取締役会長に就任。社外活動では、社団法人日本経済団体連合会 農政問題委員会共同委員長も務める。

1.「基礎学力」低下の背景にある情報化社会という構造変化

 日本における「基礎学力(読み書き計算、等)」や「挑戦意欲」の低下については、各方面から指摘されています。このことについて私は、子どもがインフォメーション(情報)をどのように受信・処理しているかという、情報化社会という構造変化に大きな要因があると考えています。
 例えば、「人と会う」「本を読む」といった情報の受信形態は、受信者自らの主体的行為によって情報受信・処理が行われます。ですが、情報化社会が進むにつれて対面や読書による情報受信の機会は減少し、テレビやパソコン・携帯電話などのメディアから情報を受信することが圧倒的に増えました。これらのメディアは、流れてくる映像や音声を受動的に処理していくだけで、受け手の主体性は必要としません。また、手書きとは違い、パソコンによる文字入力は、提示された変換候補から選べばよいわけで、受け身でいられます。
 このような受け身でいられるメディアが急速に普及したため、「情報受信能力」を身につけるために、子ども達が自ら学び努力するという機会が減少してしまったのです。「情報受信能力」とは、即ち「主体的に情報を収集するメソッド(方法論)」と、収集した情報を理解・発信するために最低限必要な「基礎学力(読み書き計算、等)」に要素分解されます。「基礎学力」とは、「社会で仕事をしたり生活したりする上で、様々な情報を収集し体系化し活かしていくための基礎力」であると言えるでしょう。「メソッド」と「基礎学力」、そのいずれが欠けても主体的な「情報受信能力」は育まれず、結果として社会で自立することは困難になります。
 これらの能力を体得する機会が減少したことによって、日本全体での人材の質の低下が指摘されるようになり、各方面に支障が生まれ、社会問題化したのは当然の帰結なのだと思います。子供たちに「情報受信能力」をいかにして身につけさせるかが、解決を急ぐべき社会課題なのです。

2.「基礎学力」を楽しく身につけさせるために

 では、「基礎学力」の中で最も重要な「読み」「書き」「計算」という三つの要素について、どのように体得させることが有効なのでしょうか。私は「美しさ」を感じさせながら、「楽しく」学ばせることが肝要だと考えます。
 まず、「読み」ですが、美しい旋律に乗せた「読み聞かせ」、そして「音読」が効果的だと思います。子どもは、物語の内容以上に音の「響き」や文章の「リズム感」に魅入られ、その世界に没頭します。その楽しさが心に沁み込めば、そこから主体的に本を読もうという意欲が生まれてくるのです。
 次に「書き」ですが、子どもたちに「手書き」の大切さを再認識させて欲しいと思います。手書きの文字には、「美しさ」や「力強さ」があり、その人の「個性」や「感性」、さらに「気持ち・体調」までもが伝わってきます。「手書き」の文字を褒めたり話題にしながら訓練することで、書く能力と感性を同時に育むことに繋がるのです。
 最後に「計算」ですが、やはり「そろばん」が効果的だと考えます。そろばんは計算を楽しくする魔法の装置です。珠がはじかれる様には「美しさ」と「リズム」があり、10進法のメカニズムを自然に体得できます。無理に暗算を覚えさせるより、ずっと自然に計算能力を習得できると思います。

3.好きなものに「じっくり」取り組み真理を追究する時間が大切

荒蒔 康一郎 氏 前述したように、学ぶことの「楽しさ」を知らずして「基礎学力」は体得できません。知らないことを知る経験は、知的好奇心を刺激するものであり、基本的に楽しいことであるはずです。では、なぜ多くの人が学ぶ楽しさを実感できないのでしょうか。
 大切なのは、「じっくり」と取り組んだ結果、苦労した末にようやく学び取ったという体験ではないでしょうか。そうでなければ「感動」に繋がらないため、「知的好奇心のスイッチ」が入りにくく、頭や心に定着しないのです。スピードや効率も大切かもしれませんが、時間をかけて山に登り、山頂で視界が開けたときのような感動が、子どもたちに知る楽しさを教え、それが次なる知的探究心を生むのです。そのような感動は、DVDを借りてきて見る山頂からの風景の画像では決して得られません。

 そういう意味において、子供や若者が「楽しい」と感じたことに没頭させ、「じっくり」何かに取り組む時間を大切にしてあげることが肝要です。学習コンテンツを速く効率的に記憶させる時間よりも、数段「基礎学力」の定着に役立つのです。
 「じっくり」取り組む何かについては、美しいもの(自然)や真理(なぜそうなるのかという原理)を探求するような事柄が良いと思いますが、大人が特に限定したり、与えたりする必要はないと考えています。自分が好きなことについて「美」と「真理」を探究するプロセスにおいてこそ、人は「楽しみ」ながら非常に多くのことを学び取るのです。例えば、大好きなスポーツ競技の上達のためなら、体を鍛えるトレーニングも苦にならないでしょうし、趣味を突き詰めるために文献を調べたりすることは、楽しみでこそあれ苦痛ではないはずです。
 私自身も、小学生の頃、生き物の世界に魅入られ、おたまじゃくしやヤゴを捕まえてきては、それがカエルやトンボに変態していく様子を飽きることなく眺めていました。そこで得た生き物への興味関心は、後に大学で微生物の研究に励み、会社に入ってからは新規事業であった医薬品の開発に携わる素地となりました。
 「読み書き計算」や「自然科学・歴史」といった「基礎学力」は、無機質な暗記活動からよりも、何か一つに「じっくり」取り組んで探求する経験からこそ、確固たるものになると確信しています。

4.「感動体験」を源とした「挑戦意欲」を

 「基礎学力」と並んで社会で必須の能力は「挑戦意欲」、即ち「継続して挑戦し続ける力」でしょう。そして、その力の源泉は「感動体験」だと考えています。
 どんなに困難でつらくとも、その先にある感動の大きさを知っていれば、それを乗り越えていくことができます。スポーツ競技における艱難辛苦の末の勝利、友人の苦境を支えた経験、などの思わず涙するような経験が、継続的な挑戦力の土台となるのです。心が震えるような感動体験をすると、「また感動したい」という本能的な動機が生まれるからでしょう。若い時に、猛烈に感動した体験を一つでも多く積んでおくことが大切です。

5.「基礎学力」の高い人が社会で活躍できる理由

 私は「基礎学力」の高い人こそ社会で活躍できると考えています。その理由をお話します。
 実社会で起こる問題とは、初めから解決の道筋が分かっているものなどひとつもありません。知識量を詰め込み、問題を解くパターンばかりを習得してきた人、つまり試験が得意なエリートタイプは、未知なる課題に直面した時、自ら限界を作ってしまいがちです。「これは自分の領域外だ」といって、最初から諦めてしまうのです。自分が知っている知識と解法パターンの中で全てを解決しようとする姿勢が、挑戦意欲や主体性を阻害するからでしょう。
 一方で、確固たる「基礎学力」を身につけている人は、探究心や不断の挑戦意欲、更に情報を収集し体系化する力を持っています。じっくり取り組めばやがて感動体験が待っていることも知っています。ゆえに、自分の限界を決め付けることなく、主体的に問題を発見し、課題を設定し、その解決を行っていくでしょう。結果として、社会や企業への貢献度を大きくしていくことが出来るのです。

6.論理力・情緒力・体系化力を同時に鍛える「手書き」の効能

 前述した各種メディア(パソコン、等)が普及したため、私自身も手で書く機会が少なくなりました。しかし、私は左脳(論理)と右脳(情緒)を鍛えるためにも、手書きの重要性を感じています。
 例えば、手書きで手紙を書く場合は、先に全体の構成を考えてから書き出します。また、イメージと異なる文を綴ってしまった場合は、さらに熟考を重ねて後ろの文章で軌道修正をします。この時、左脳(論理)が鍛えられるのです。ところが、eメールなどの場合は、後からいくらでも文章や段落の入れ替えができますから、先に構成を考えることなく、とりあえず打ち始めてしまいます。これでは、左脳が働くことはありません。
 また、手書きする場合は、一文字一文字に思いを込めて書くでしょう。自分の気持ちを的確に表す語彙や表現をあれこれ悩みながら綴っていく時、右脳(情緒)が鍛えられます。私は、母が他界した後に一人残された父のことが心配になり、出張中の空港や飛行機の中でよく父に手紙を書きました。数年後、その手紙の束が大切に保管されていたことを知り、手書きが伝える心というものを考えさせられたことがあります。ほんの数行でも良いですから、手書きの手紙を書く習慣を持つことをお勧めします。

 手書きについてはもうひとつ、私自身が続けている習慣があります。およそ20年以上に渡り、会議等で出てきた話の要点や自分の考えを、バインダー型のノートにメモし続けています。書くのは「事実」と「思考」だけで、「感想」や「中傷」は決して書き残しません。相手の話をそのまま書き写していくのではなく、自分の考えを母国語で体系的・構造的に整理して書き留めるのです。「要は何なのか」「大事なポイントは何か」という観点で、言葉の羅列ではなく、「意味の塊」を記していくことが肝要です。
 ノートの冊数は、現在60冊以上になっています。過去のノートを見返してみると、自分の思考の幅が広がったり深まったりしていったことが良く分かります。こうしてメモ力を鍛えると、新しいことを学び取り、自分の中で体系化スピードが速まるので、仕事や学業の成果を高める上で効果的です。手書きの機会が減少している今こそ、ぜひ皆さんも手書きでメモをとる習慣をつけることをお勧めします。


※掲載内容(所属団体、役職名等)は取材時のものです。

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